忘れもしない2011年3月11日14時46分18秒。
東日本大震災後、5か月が経ちました。
2002年4月より週1回出張勤務(現在は月2回)している福島県いわき市にて、私はその現場を目の当たりにし帰宅困難者となりました。
病院の当直室に入り仮眠をしていると、きまって深夜帯にゴオーと大きな音と共に余震が続き飛び起きるという日々を体験しその度にフラッシュバックのようによみがえる記憶が少しづつ減ってはきているものの、出張に来るたびに、緊張感は高まります。
2011年8月19日15時36分に震度4の地震と津波警報がでました。
またあの悪夢がと思いつつも地震に少し鈍感になっている自分がここにいます。
8月18日このような記事を読みました。
福島県の小学生4人が、政府の原子力災害対策本部被災者支援チームや文科省、原子力安全・保安院、内閣府などの職員10人と話し合う会が衆議院第一議員会館で行われ、政 府側は子供たちから質問を受けると、ヒソヒソ話で相談、マイクのバケツリレーなどをして、口を開くと「最大限」「ご指摘ありましたように」「持ってかえっ て」など、子供にも普段と同じような答弁の繰り返し。さらには「最大限ってどういう意味ですか」などと聞き返される始末だった。最終的に質疑はかみ合わな かったと・・・
福 島県の人々は、依然と全く変わらない笑顔で日々を送っているように見えます。私もここに来るたびに皆さんから勇気をもらいます。本日外来に受診された患者 さんからこんなお話をされました。60年間の思い出の詰まった二世帯住宅が、倒壊状態で一棟を修繕するのに400万円かかるので、一棟を潰して今後生活し ていこうと思っています。津波で被害を受けた方に比べれば、こんなの[かすり傷]みたいなものですと・・・